1910年(明43)立川文明堂刊。大阪の版元、立川文明堂(たつかわ)は講談を青少年向けに書き下ろした「立川文庫」を明治末期から大正時代に200点ほど発行して一世を風靡した。その題材の源泉は玉田玉秀斎(3代目)が抱えていた。彼は関西で活躍した代表的な講談師の一人で、この時期に50代の円熟期を迎えており、この他に講談の速記本を複数の版元から200点近く出している。「立川文庫」はあくまでも青少年向けの言わばリライト版であり、江戸時代から続いた話芸としての講談の裾野は遥かに広大だったと思われる。
日本の代表的な剣豪の一人、荒木又右衛門の名前は有名だが、鍵谷の辻での仇討で36人斬りをした、ということ以外は実は何も知らなかった。戦後の昭和時代までは映画や小説などでも何度も取り上げられたのはわかっていたが、見過しているうちにそれらは過去に埋没してしまったかのように感じる。この剣豪の物語は講談でも非常に人気のあった演目であり、それぞれの講談師の語りによって数多な速記本として残されている。その点では音楽の演奏家と似通っているかもしれない。玉田玉秀斎の語りはそれぞれの回での要所を抑え、脱線もせず、小説を読むように豪放磊落な剣豪の一代記を味わうことができた。よく言われるように、ひとりで36人はとても斬れないはず、と思うのだが、それを何とかやり遂げたと説き伏せるのも講談師のワザなのだと思った。☆☆☆☆
国会図書館デジタル・コレクション所載。口絵は鈴木錦泉。
*参考ブログ:講談師・玉田玉秀斎の備忘録(4代目)