明治大正埋蔵本読渉記

明治大正期の埋もれた様々な作品を主に国会図書館デジタル・コレクションで読み漁っています。

『怪談美人の油絵』 松林伯知

1901年(明34)滝川書店刊。松林伯知は泥棒伯円と称された名人松林伯円の弟子で、明治後半から昭和初頭まで講談師として活躍した。高座での口演の外に速記本での出版物も師匠の伯円に匹敵するほど多かった。伝統的な剣豪・合戦物から文明開化後の近代物まで幅広く取り上げた。この「美人の油絵」も明治時代に急速に人気を高めた京都在住の洋画家と、その伴侶の座を争う2人の美女、および粗忽者の弟子や粗暴な書生が入り乱れる犯罪と怪談との一大話が語られる。伯知に圧倒されるのはその話量の多さと豊かさであろう。小説家たちが筆をなめて一心に書き綴るよりも素速く、口から次々と朗々と繰り出される言葉には感服させられる。☆☆☆

 

国会図書館デジタル・コレクション所載。口絵は安田蕉堂。

dl.ndl.go.jp

 

*参考記事:またしちのブログ 松林伯知(1)

松林伯知(1) | またしちのブログ

 

 

《今は油画黒田清輝先生美人画を描いては頗ぶる名人がお出ででございまする。又た此の美人画は裸体でゐるのを真の美だと言ッて学者先生はご賞賛に相成りますさうでございます。彼の豪州より帰った者の話しに何処の家にても裸体の女の額を飾って置かぬところは無いと斯う申しまして、彼地では裸体の美人を人を産む神だと言って非常に遵奉してをります。日本では裸体の美人なぞは風俗を紊乱するの醜婦と申して美人が裸体なぞでをれば非常に人が擯斥(ひんせき)いたす。女子も男子も肌を見られるといふのを恥じるくらゐ東西国を異にし教へを異にしてをれば是だけ事が違ふので・・・然処(ところ)が内々此の美術画をば欧羅巴人が日本の画工に注文して買って行く者が大層ある。》(第一席)

 

《露の垂るやうな女といふのは此れでもあらふかといふ当世風の顔は丸い方でございますが、背はスラリとして鼻の高い口もとの締りました色の白い、目の涼しい、眉毛の濃い、髪の毛の多っぷりしてゐる、少し肩が角張(いか)ツてゐるかと思ふのが瑕疵。手足も至って甚小(じんせう)で衣装(なり)は其のころ流行(はやり)ましたお召の紫の矢がすりに繻珍純子(しうちんどんす)の帯をキチンと締めて、文金の島田髷に結いて其処へ坐ったところは何うしてもお嬢さんとしか見へない。》(第五席)

 

 

《扨(さ)てとや妾(わたく)しこと、先生様に御目もじいたしてよりお嬉しき夢も僅かの間に、奥様のお腹立ち、植田様のご意見に、弗(ふつ)つり思ひ切りますと口では申しましたけれど、心の中では本意ないお別れ、浮世の義理と切なさをヂッと堪へて汽車のうち、西の空のみ打ち眺め、忍び泣き泣き東京へ帰りに帰りましたれど、恋しきことの遣る瀬なく責めてもの心ゆかしと、朝な夕なに暇さへあれば抱え主の眼を盗み、先生様のお写真のみ眺めをり候。夫れゆゑか外のお客さまのお座敷も手につき申さず、(---)只今では重き枕に打ち臥しをり候を、御深切にも植田さまが可愛さうだと先生様へ手紙をさし上げ、奥様へ内々に御出でを願って下さるとのこと、妾(わたく)し身に取り御嬉しく最う一度先生様のお顔をお見せ下されば其のまま死にましても心残りはござなく候らふまゝ、妾(わたく)しを悄然(ふびん)と思し召し何うぞ何うぞ御出でのほど願いあげ候()。勿か勿か(なかなか)筆をとることも能(かな)ひませぬを先生様へ差し上げるといふ嬉しさの餘り漸々(やうやう)書きしるしましたのなれば思ふ心の十に一つも書け申さず、取り乱したる文章の節々お笑ひなきやう御覧のほど念じあげ候。あらあらかしこ。》(第八席)

 

 

 

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