1939年(昭14)春陽堂刊。タイトルの「両国の秋」は綺堂の作品中で情話集に分類される江戸期の男女の情愛のもつれを描いた中篇になる。春陽堂のこの一巻には、他に半七物の最後の四篇と共に半七の外典とされる『白蝶怪』の中篇が併収されていた。
『両国の秋』は蛇使いの見世物小屋を張るお絹が心底から思いを寄せる屋敷勤めの下級武士林之介との心情の機微や町人たちの生活感を達意の文章で味わい深く描いている。特に林之助がお絹の病気を気にしながらも、貧しい茶屋奉公の娘に次第に心が惹かれていく板挟みの心理など、立派な文芸作品として読み応えがあった。☆☆☆☆
「半七物」も三十年ぶりに再読したが、文句なく堪能できた。特に『二人女房』は府中のくらやみ祭を背景に半七が江戸から出張して謎を解くのは見事。『白蝶怪』は半七の養父である三河町の吉五郎親分の手柄話で、季節外れの冬の夜に舞う白い蝶という怪奇的要素も加わり、入り組んだ謎に犠牲者も多く出たのは大事件であった。☆☆☆☆
国会図書館デジタル・コレクション所載。挿絵は今村恒美。
《打止めの花火を雨に流された両国界隈は、惨めなほどに寂れてゐて、ならび茶屋も大抵は床几を積みあげてあった。野天商人もみな休みで、こゝの名物になってゐる鰯の天麩羅や鯡の蒲焼の匂ひも嗅ぐことはできなかった。秋の深くなるのを早く悲む川岸の柳は、毛のぬけた女のやうに薄い髪を振りみだして雨に泣いてゐた。荷足船の影さへ見えない大川の水はうす暗く流れてゐた。》(八)
*参考記事:WEB松戸よみうり