明治大正埋蔵本読渉記

明治大正期の埋もれた様々な作品を主に国会図書館デジタル・コレクションで読み漁っています。

『悪魔の恋』 三上於菟吉

(おときち)1922年(大11)聚英閣刊。当時屈指の流行作家とされた三上の初期の頃の長篇小説である。若い男女の逢引きの場面から始まる。青年は富豪の息子、娘は親の金銭の不始末から身売り同然の結婚を迫られていた。息子は彼女を助けるため金策に走るが、行き詰まって家の金を盗み、殺人の嫌疑も受ける。物語はどん底の状態で放免になった青年の復活劇と共に、不幸な結婚を強いられた娘の自殺未遂から人生への光明を再び見出すまでを描いている。巻末の余白に鉛筆で落書きがあって「三上って野郎の文章は相変らず下手糞だ」と書いてあった。文体は悪文ではないと思うが、確かに構成上、偶然や僥倖の要素が多すぎる気がした。しかし最後まで読ませるだけの筆力はあると思う。娘の不幸の元凶たる親の放埓に対し、不問のままで最後まで懲罰がないのがどうも煮え切らなかった。(実社会でも悪がのさばり続けるのだとすれば自然主義的でもあるが・・・)☆☆

 

国会図書館デジタル・コレクション所載。口絵・挿絵は無し。

dl.ndl.go.jp

*参考画像 暁鶏館 @犬吠埼灯台大百科Blog:渋沢栄一、犬吠崎に遊ぶ 

https://inaboye.jp/wordpress_6/?p=5641

 

余はこの一篇がどんなに拙なく詰らなからうとも、うちに含むある精神の力と熱とが若い人達のめいめいが持つ情熱を幾分照り輝やかせることだけは出来ようと信じたのである。(小序)

 

 

《彼女は植込の間に、うすく輝きながら沈んで行く夕日を眺めるとき、何処でか此の同じ夕日を眺めて居るであらう一人の青年を思ひ出さずには居られなかった。勇は二人の友達への喜ぶべき便りのうちに、彼を時折り襲ふ絶望の死から自分を引き止めたのは、月や、またおぼろな星の遠い光であると書いたが、彼女にとってもかう言ふものは生活への呼び戻しの使者であった。そして、彼女は、握った刃物を棄て、取り上げた紐を離して、また諦めと希望との、不可思議に入り交った、苦しい現実の世間へと生き残るのであった。》(19. 移動する獄屋)

 

《世の中は不思議なもので、世間の毀誉褒貶の間に間に其の人の人格は高められたり低められたりして考へられる。呪ふべき親殺しとして全都から極端な指弾を受けた江馬勇が、久しく隠れて居た田舎からあの有名な老政治家の推薦を受けて、大事業の計画者として再び上京した時、世人は嘗(か)つてあのやうに憎悪し、呪詛した事を忘れてしまったやうに、好奇の眼を睜(みは)りつつ歓迎した。》(33. 若い者の時代)

 



 

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