
1925年(大14)新潮社刊。
三上於菟吉の出世作。白鬼と渾名されるニヒルな青年細沼は、刹那主義的な思考で言葉巧みに世渡りをしていく。その狡猾な弁舌と振舞に惹かれた女たちが次々に恋の魔手にかかる。それは真面目な女事務員、芸術家集団の派手好きな令嬢、実家へ出戻りの有閑夫人、怪しげな酒楼の女給などだが、その生き様や恋愛心理を精緻な筆で綴り、見事に書き分けている。また一方で大正モダンの活発な芸術活動の情景も描かれ、青年たちの手応えのある恋愛論や人生論が戦わされている。
主人公の姿には作家自身の享楽的な生活観を反映しているようにも見えるが、「赤と黒」のジュリアン・ソレルやニヒリズムのロシア青年たちの姿も彷彿とさせる。これは通俗小説と見下げるどころか、れっきとした文芸作品ではないかと思う。☆☆☆☆☆
※「小説には大衆文学も純文学もない。小説は小説でいいのだ。」(林房雄)
国会図書館デジタル・コレクション所載。個人送信サービス利用。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1183893
カバー絵は大橋月皎。
「僕はほんの三度か四度二人であなたと話しただけだ。あとは社で遠くから顔を見てゐるだけですからね――本物の、奥底の、本質的なあなたといふものが人生のすべてに対してどんな考へを持ってゐるのか、全然無智だと言ってもいいのです。案外あなたは僕なぞが思ってゐるよりもうんと勇気のある方で、たとへば今の恋の問題にしても、あなたがほんたうに恋した暁にはどんなにでも思ひ切ったことをなさる方かも知れん。僕はあなたに対するほんの表面(うはつら)の、漠然とした印象を語るに過ぎないのですよ。」(二)
「ところがそれに反して人間が今生きてゐる此の刹那を……この現在の瞬間をだけ大事にしてゐれば、そこに何の悔ひもない! 目の前の現はれに打ち込んであれば、昨日も明日もその人には悔ひや怖れとしては映らぬのだ。昨日の回想に悔ひを感じる閑で現在を楽しむがいゝ。明日の想像に恐れを感じる閑で現在を味はふがいゝ――それが、人間に許された唯ひとつの正しい生活法なんです。」(三)
「恋とは何だらう? 出逢った男と女とが、出来るだけ速く、出来るだけ止め途もなく、急な断崖をころげ落ちる仕事なのだ。炎よりも熱い熱度を生じる程の勢ひで抱合って飛び落ちる冒険なのだ。そこに魅惑がある。考へ込んだ結果の、危険の伴はない恋愛なぞといふものがあったら僕はお目にかかりませんね。そんなものは恋とは呼べない。それはだらけた感情の散策に過ぎないのです。」(三)
「こんな手合にとって人生なんといふものに何の希望もありやうはずはないのだ。人生の意義とは何だ? 我れ自ら望み、我れ自ら成し遂げてゆく外に何もないではないか!」(五)
《彼女はたゞ浮気で不貞な細沼を――彼みづから人間は刹那に酔ふ外はないと口癖にしてゐる細沼を、愛し、恋し焦れ、慕ひ、彼のみに縋り、彼のみに依りかかる外はないのであった。その執着をどうすることも出来なかった。》(六)
「しかし、いづれにせよ、死ぬのは馬鹿者ですよ。」と、細沼は急に噛んで吐き出すやうに言った。「人間はいついかなる場合でも生き得るだけ生きなければならないものです。」
さくら子は蔑すむやうに微笑した。「それは常識論だわ。大ていの人は死よりももっと貧しい生を貪って生きてゐるだけだわ。」(八)
『人間とは何だ?』と、突然彼は口に出してつぶやいた。『人間とは結局欲望に曳かれて生きる存在だ。では誰が俺の存在を笑ふことが出来るだらう。』(一六)