1951年(昭26)同光社刊。全12篇。
1950年(昭25)4月、雑誌「富士」掲載「辰巳八景」清水三重三・画。
1951年(昭26)3月、雑誌「富士」掲載「仁王の怒り」佐多芳郎・画。
1951年(昭26)5月、雑誌「富士」掲載「地獄のたより」馬場鯱・画。
埋もれた作家というのはこの人のようなことなのだろうか。検索をかけても人物紹介の記事は皆無に近い。唯一「古本夜話」で小田光雄氏が紹介していた。(末尾参照)
三好一光(みよし・いっこう)(1908~1990) は岡本綺堂の弟子の一人であり、戦中期には戯曲を書いていた。また江戸風俗の研究家でもあったようで、「江戸語事典」等の編著者として珍重されていた。戦後復刊された文芸誌「富士」に頼まれて、この清吉捕物帖や江戸風俗物の小品を書いた。
清吉は浅草諏訪町の紅勘横丁に住む岡っ引で、同居している子分の太吉や三八がいるが、女っ気は全くない。実直な人情家で、捜査手法は子分や出入りの下っ引きを巧みに指揮する正攻法である。子分の中では一番動いているのが三筋町で古着屋をしている竹五郎で、小柄なので小竹、古着屋なので古竹とも呼ばれている。清吉が活躍する年代は、文政元年駈け出しの20代から天保九年の50代半ばまでの間で、日付が明記される事件のうちでは年代が順不同に前後して出てくる。
各事件とも芝居運びの上手さ、対話の妙味などが生き生きと感じられ、師匠の岡本綺堂の「半七」に十分匹敵する出来栄えだと思う。美しい日本語の書き言葉、と定評のある岡本綺堂の文体にとてもよく似ている。特に雑誌「富士」に掲載された3篇は、江戸の小話をそのまま芝居仕立てにしたような小気味良さを妙味のある挿絵と共に味わえたのは満足だった。☆☆☆☆☆
雑誌「富士」は戦後数年で行き詰まるが、この時期には「捕物帖」が全盛を極め、諸作家がこぞって書いていた。「清吉」物も他の雑誌のためにしばらく書き続けられ、単行本としてまとめられたのは6冊に及ぶ。捕物帖ブームが去るのと一緒に忘れ去られたのは残念で、もっと親しまれてもいいはずだと痛感する。
国会図書館デジタル・コレクション所載。個人送信サービス利用。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1642663
https://dl.ndl.go.jp/pid/3561678/1/73
https://dl.ndl.go.jp/pid/3561692/1/135
https://dl.ndl.go.jp/pid/3561694/1/117
雑誌掲載時の挿絵は掲載順に、清水三重三、佐多芳郎、馬場鯱。
《親分七兵衛の跡目を嗣いで間もない浅草諏訪町の岡っ引清吉の許を訪ねたのは》(女役者)
《不忍の池の蓮の葉はまだ青々と浮んでゐた。上野の山の山裾から藍染川に添って遡ると、大きな大名や旗本の下屋敷から、だんだんに小役人の組屋敷などがつゞいて、まばらな垣根内に挘(も)ぎ残された茄子や胡瓜の畑などの見えるやうになり、江戸の気分が薄くなった時、忽(たちま)ち其処に場末らしい町の姿があらはれた。それが根津権現の門前町で、かなりに広い一画であった。》(女役者)
「おい、しっかりしてくれ。岡っ引の手先でも勤めようてえ者が、そんな箆棒な話をのほほんと、間抜けな面アして聞いてる奴がどこにゐる。(…)こんな浅はかな書置を拵(こしら)へて随徳寺(ずいとくじ)を極めたんだ」(夢占ひ)
「七八年前、仲町の尾花家から市松と云って出てゐた時分にやア、豊国の描いた辰巳八景てえ八枚つゞきのうち、仲町の夜雨てえ見立の中に描かれたくれえのいゝ女で。」(辰巳八景)
《卯の花くだしもカラリと晴れて、すがすがしい朝空の下を、ちゃうど来合せた子分の小竹を連れて清吉は、八丁堀玉圓寺裏に町方同心近藤源四郎の役宅を訪ねた。》(百両牡丹)
「昔から猫でない証拠に竹を描いておけ、といふが、伝さんもとんだいかさまをする人だ。」(消えた瑠璃太夫)
「へい、それぢゃアまア何とか まじくなって見ませう。」(仁王の怒り)=取り繕う
《空は高く澄み切って、大通りの家並の影もクッキリと、招牌(かんばん)の塵もわかるくらゐ。その強い日射しの中を赤蜻蛉の群が高く低く、頬を舐めて行く風もひんやりと小気味よく、下したての麻裏の爪先も自然(おのず)と軽くなるのだった。》(仁王の怒り)
「仁王堂の殺しを詮議に行く途で、仁王祭にぶつかるなんて、面白え辻占だな。」(仁王の怒り)
※三好一光に関する記述
筆者の小田光雄氏は本年6月に惜しくも逝去された。