(こいのひがのこ)明治中期には円朝をはじめとする口演速記本が人気を呼んでいた。翁家さん馬(おきなや・さんば)も江戸時代から続く落語家の名跡で、この時期は5代目さん馬の盛期に当たる。彼は京都・大阪方面で活躍していたので、京都の版元駸々堂などの求めに応じて速記本を出していたと思われる。語り口がなめらかであり、読む者としても気持よく話に引きつけられた。
表題としては、恋人に会いたいがために自宅に放火したという「八百屋お七」の史話を取り上げているのだが、この長尺の口演の全体の四分の三までは、直接関係のない旗本の世継ぎをめぐる御家騒動が前置きになっている。その事件も延宝八年三月十一日という奉行所の判決記録の日付が明記されていて、実話に基づいていたようにも思われる。廃嫡の悪巧みの全貌を薄紙を剝いで行くように追いつめる奉行所の手腕には、詰め将棋のような見事さが感じられた。ある意味では後年の探偵小説の先駆でもあったと思う。全篇を通じて顔を出しているのが湯灌場小僧の吉三というピカレスクな面もあり、単なる講釈本以上の楽しみが得られた。☆☆☆
国会図書館デジタル・コレクション所載。
https://dl.ndl.go.jp/pid/891261
挿画は稲野年恒。