1958年(昭33)和同出版社刊。
1958年(昭33)2月、雑誌「小説倶楽部」に『昼間の女』を掲載。
1958年(昭33)6月、雑誌「小節倶楽部」に『夏の花』を掲載。
1958年に雑誌「小節倶楽部」や「小説新潮」に掲載された連作風小品をまとめたもの。全9篇に加えて「新蝶々夫人」を併収。
都会の片隅にある旅館を舞台に、そこの常連客に女性を周旋する女将のしたたかさと、つかの間の欲情に身を任せるに至った女性たちのさまざまな生き様を描く。各話とも寸景止めのように結末まで追わずに途切れている。
人間の欲望には際限がない。飽食も下品だが色欲も劣情になる。動物の本能から発生するのだが、人間の知性をもってしても完全抑制は無理なのだ。とわかっていながら悶々と生きるしかないのが人生かも知れない。☆
国会図書館デジタル・コレクション所載。個人送信サービス利用。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1646913
https://dl.ndl.go.jp/pid/1790453/1/45
https://dl.ndl.go.jp/pid/1790457/1/58
雑誌掲載の挿絵は「昼間の女」が下高原健二、「夏の花」が土井栄。
単行本の表紙絵は田村泰次郎本人の作画。
《美喜は、自分の身体が恐しくなった。その前に、自分自身が浅ましくて、やりきれなかった。なによりも、良人の正平に申訳なくて、それを考えると、良人の顔までも正視出来なかった。彼女は、こんなふうにして、自分の心が崩れて行くのが、こわかった。はじめのうちは、鬼藤てつ子の家で、自分の身体の感じる一切の感覚に、自分は責任はないと思いこもうとしたが、彼女は官能の炎のなかに、われとわが身を投げかけているときがあった。悔恨と羞恥とのなかで、彼女の魂はあえいだ。》(流れ雛)
《光子は、次第に考えることが不得手になっていた。起きて、喰って、飲んで、男を相手にして、また眠る毎日がつづくと、ものごとに対する判断力もなくなった。善悪の観念など、彼女の頭のなかから消えて行った。その方が、彼女にとってはありがたいのだ。生きているのは、自分の肉体だけだった。飲食のよろこびも、男に抱かれる陶酔も、みんな、肉体だけが感じている。それだけで、彼女は満足だった。余計なことを考えることは、わずらわしさ以外のなにものでもない。そんなことは、彼女が生きて行く上に、不必要だった。》(新蝶々夫人)