1953年(昭28)同光社磯部書房刊。11篇所収。
1952年(昭27)雑誌「読切倶楽部」一部掲載。
野村胡堂と言えば「銭形平次捕物帳」が代名詞のようになっているが、その外に「池田大助」の捕物帳のシリーズがある。この池田大助ものは戦後になってから書き始められ、雑誌「読切倶楽部」などに長期間連載されていた。全集10巻本に83篇が収められている。
主人公の池田大助は大岡越前守の屋敷の用人として抱えられているが、奉行所の与力や同心ではなく、あくまでも「手伝い用人」として御用聞きの源太親分や飴屋の仙太郎とともに難事件を解いていくというスタイルになっている。女っ気が少なく、性格描写も淡々として、ドライな掛け合いの中で謎解きが進んでいくという軽さと手堅さがあった。☆☆
大岡越前守の活躍については「大岡政談」という名称で、すでに江戸時代から絵草紙や講談などで多種多様に語られてきたが、その中には股肱とされる与力石子伴作やこの池田大助が登場する事件も含まれている。股肱たちが実在の人物だったかどうかはわからない。
国会図書館デジタル・コレクション所載。個人送信サービス利用。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1643453
https://dl.ndl.go.jp/pid/1723106/1/2
雑誌掲載時の挿絵は成瀬一富。
《天下の名奉行大岡越前守が、町の往来で「板倉ごっこ」をやって居る利発な少年を見出し、自分の手許に引取って育てたのがこの池田大助で、それは物の本や講談などにも伝えられ、桶屋の倅の大助が、後に大岡越前守の用人に取立てられ、大岡裁きの陰の功労者になったことは餘りにも有名です。》(五人娘の行方)
《お北の場合は、あまり多くない髪の毛の一筋々々でさえ、真珠色の皮膚の上に息づくのでした。一番先に眼に入った、耳朶の美しさは、血の通う花片とも言うべきでしょうか、ふり仰ぐと、少し大きい碧味を含んだ瞳、紅珊瑚色の唇の曲線と、柔かい頬の暖かさが、熟れた桃の実のような新鮮さを感じさせます。》(美女有罪)