
1916年(大5)春江堂刊、前後終編の全3巻。
北島春石は硯友社系列の二流作家と見なされていたが、地方紙に新聞小説を書き、家庭小説の分野でも多くの作品が出版されており、文字通り「筆達者」な人物であったと思う。この『望』(のぞみ)も九州日報に連載された長編家庭小説で人気を博していた。

ヒロインの三枝子は娘の美作保を生んで幸福な家庭生活を送っていたが、ある時から夫の録弥の生活が乱れ出し、芸妓の艶香と身を持ち崩す状態となった。その原因は三枝子が従兄の大学生欣一と不義の交際をしていたという疑念からであり、娘も自分の子ではないと思い込むようになった。欣一は卒業後大阪や上海で働いていたが、6年ぶりに東京へ転勤となった。彼は三枝子の家庭の危機を立て直そうと尽力するが、それが更に疑念を深める結果となった。実は欣一は在学中に芸妓の艶香と関係があり、艶香は密かに彼の子供を産んで貰い子に出していた。艶香は録弥を誑し込んで、三枝子の不倫の現場を画策し、彼女を離縁させて自分が正妻として家に入ろうとする。
家庭小説のお決まりの、生みの親と育ての親の対立や、病気で寝込む母親を助けるために夕刊売りを続ける少年の孝行振りなど、多様なエピソードが入り交じり、長尺の連載となってしまったようだ。当時の社会状況でも女性の経済的な自立は困難であったのは確かだが、泣き寝入りするだけでは何も解決しないという発見から行動に移そうとする女性の自覚の光明のようなものを描いた点は注目したいと思った。☆☆☆

国会図書館デジタル・コレクション所載。
https://dl.ndl.go.jp/pid/914216
https://dl.ndl.go.jp/pid/914217/1/4
口絵は川北霞峰。
《小説家としての春石君の技倆は、中央文壇に於ても、優に赤幟を樹て得る丈の価値を有せらるゝにも拘はらず、今日まで赫々たる名声を馳せなかったのは頗る案外であるが、其の新作『望』の出現に因って自己の真価を九州に紹介し、更に此度春江堂から単行本として出版され、弘く満天下に向って其才筆を示されたのは、》(序文)

「お母様とさへ一緒にゐられたら、僕は学校へなんか行きたかない、三度の御飯が一度でもお腹が空いたなんて言ひません。だから、そんな悲しいこと言はないで、何時(いつ)までも僕のお母様でゐてください。」
何といふ可憐(いじらし)い望(のぞみ)だらう?! それを聞いて、誰が泣かずに居られやうか。(二人の母)
《最(も)う七時過ぎの、日はとっぷり暮れて、石倉の浪花節の定席では、御入来のだび声に入込み時の賑しく、溝際の枯柳の蔭には附景気の向ふ鉢巻で、眼球(めだま)の流れかけた場曝(ばざれ)物の安肴を戸板に並べ、カンテラの油煙が濛々(まうまう)と立ち迷ふ前には、裏店の女房達がガヤ付いてるのを手始めに、狭い往来の両側には、いかさま物の古着屋や古道具屋がズラリと露店(ほしみせ)を張って、仰上(みあ)げる空には雪催ひの雲低く、如月近い夜風は剃刀のやうだ。こゝが八丁堀の仲町である。》(挟撃)

「妾(わたし)は唯柔順(すなほ)と云ふのみで他には些(ちっ)とも取得のない女……まるで人形のやうな女でした。それも活(いき)てゐるのではなくて、魂のない土人形も同一でした。妾に息が通ってゐたとは名ばかりでした。あゝ!今になって漸く気が注(つ)きました。たヾ柔順のみが女の命ぢゃありません! 女も活きてゐれば自分から動くことを知らなくては何の役にも立ちません。(…)もう今日かたはそんな弱い心を捨てゝ、他人の助けを待たずに、自分で自分の運命を拓きませう!」(覚醒)
※故小田光雄氏のブログ 出版・読書メモランダム
紅葉四天王の一人と呼ばれた柳川春葉の代表作に『生さぬ仲』がある。しかしこの小説は最初から彼の弟子であった北島春石に代作させたものであり、人気が出て連載が延長となった後に春葉自身が書き継いだとされる。それだけ春石の力量があった訳なのだが、当時は代作を暴露することもなく、春石が一躍脚光を浴びることはなかった。