
1910年(明43)樋口隆文館刊、前後全2巻。
時代は明治末期、日清戦争直後の頃。横浜の花柳街として有名な真砂町の貸家に入居を申し込んできたのは、目の覚めるような美貌の芸妓上がりのような若い女性。金に糸目をつけず、単独で次々と交渉をまとめて行く姿は謎だらけだった。彼女はすぐに待合の営業許可を取りつける。不審に思った家主は遊び人の甥や、その友人に頼んで、その内情を偵察させるが、いずれも失敗する。まもなくこの女に財産を掠め盗られたと称する男が田舎からやって来るが、別の三百代言の男に騙されて有金を取られて絶望する中で、殺人事件が起きる。
簡単に言ってしまえば、美貌を武器に、寄ってくる金満家の男たちから次々と大金を騙し取る悪女の一代記である。サブタイトルに「事実小説」と謳い、明治の文人福地桜痴を作中に登場させるなど、かなり実話に近い小説かと思わせたりもするが、そもそも作者、渡辺黙禅の真骨頂は時間的空間的な広がりを見せ、歴史の荒波に揉まれる人々の運命を描くことにある。前半は身元調査と謎解き、後半は悪女の半生記が種明かしにもなっていた。女の色香に惑わされる男の馬鹿さ加減はここでもどうしようもない。☆☆
国会図書館デジタル・コレクション所載。
https://dl.ndl.go.jp/pid/887934/1/2
https://dl.ndl.go.jp/pid/887935
口絵は長谷川小信。

《芳紀(としごろ)は打見(うちみ)が二十五六とも推定(ふめ)るが、よく見れば幾少(もっと)老けた所もあり、爾(さ)うかと思へば猶且(もっと)若くも判(と)れる、背のすらりとした撫肩の、一体にやせぎすの方であるが、かういふ女に有勝(ありがち)の貧血相ではなく、活々(いきいき)と冴えた皮膚の色艶、磨き上げた石膏に薄紅の薔薇を暈(ぼ)かしたかの様、つんとした鼻の、二重瞼の愛らしい眼つき、下膨れの頬に莞爾(にこやか)と笑(ゑみ)を含んで、物言ふ度にちらりと流し眼を使ふのが癖、此奴(こいつ)決して尋常(たヾ)の鼠では無い、》(二)
《女子として守らねばならぬ節操、名誉、徳義、それらの凡てを挽(なげう)ってまでも、此の肉体の苦痛を救はねばならぬといふ道理はない、大切な婦徳を傷つけて僅かな苦悩(くるしみ)を遁(のが)れたからと云うて何の満足、何の幸福を得られやう、もしそれを幸福(さひはひ)だと感ずるくらゐなら、吾の心は汚れたのである。》(二十二)
《娘は二十か其辺(そこいら)、面長の下膨(しもぶく)れ、色こそ日にやけて浅黒くなったれ、二重瞼のぱッちりと冴えた星眸(ひとみ)、鼻筋の透った、富士額の髪の毛の濃い、肌理(きめ)の滑澤(つややか)な、巡礼には可惜(あたら)ものゝ美人であった。》(三十三)