
1916年(大5)樋口隆文館刊、前後終全3篇。
作者の春風楼主人(しゅんぷうろう・しゅじん)とは、戯作者の称号のようだが、大正期でもそうした称号を用いる作家は少なくなかった。おそらく別人と思われる人が、明治中期頃史実物を書いた記録がある。一番わかりやすいのは各巻の奥付を見ることであり、それによれば「小川栄」となっている。もちろん生没年は不詳。同時期に活躍した小川霞提や小川煙村とも考えられたが、同一本名の人物ではなかった。

前後終篇の全3巻、600頁超の長編家庭小説、悲劇小説だが、男が大事な一言を伝え漏らしたことが、悲劇の発端となる。美術の勉強のために洋行する画家の白河は、意中の人清子に何も伝えずに旅立つ。親戚の里村の紹介で保険会社勤務の奥山との結婚を勧められ、彼女は泣く泣く結婚する。しかし奥山には芸妓上がりの情婦邦枝がいて、まるで小姑のように婚家に上がり込み、嫁いびりの果てには、清子が妊娠したばかりの子供まで、婚前の不義の子だとまで言い出し、奥山から離縁の一言を取りつける。実家に戻った清子は文子という可愛い女児を産むが、先の事を考えて、里村が京都へ転居するのに合わせて、里子に出すことになる。その後帰国した白河は清子と結婚する。

後半は大原女として育てられた姉妹、お光と文子の物語。清子にとっては幸福な10年の歳月が流れたが、白河も京都へ転居しており、ある日山へピクニックに行ったところで、白河の妹春江が、清子と生き写しの少女と出会う。名前も年頃も同じなので、彼女は独断でこの少女を家に迎え入れることにする。その頃白河の家の裏隣りに引っ越してきたのは、奥山と邦枝の夫婦だった。そこに文子の姉のお光が身売り同然に預けられ、二人は偶然に生垣の境越しに再会する。清子は実娘でありながら文子と精神的に打ち解けることができず苦しむ。文子は夜中に生垣を越え、お光と一緒に逃げようとするが、二人とも捕まり、邦枝の厳しい折檻を受ける。・・・

「部落問題文芸」というテーマで、この作家に関しても言及が見られる(下掲)がこの作品では大原女の風習や言動に若干の粗野な部分はあっても、差別に該当する表現はなかった。何度も泣かされる少女たちの可憐さに心が惹かれた。☆☆☆
国会図書館デジタル・コレクション所載。
https://dl.ndl.go.jp/pid/917924/1/2
https://dl.ndl.go.jp/pid/917925/1/2
https://dl.ndl.go.jp/pid/917926/1/2
口絵は八幡白帆。
※「春風楼主人」についてである。この作者も確認できない。はじめ本選集に収めた「想夫憐」「残月」の作者である渡辺霞亭ではないかと考えた。それというのは、霞亭は黒法師、碧瑠璃園などのペンネームの他に春帆楼主人という別号もある。(部落問題文芸・作品選集 第35巻)