
1917年(大6)春江堂書店刊。
タイトルの「シビリゼーション」または「シヴィリゼーション」は、辞書では ”civilisation”「文明」とかの意味になるだろうが、ここでは同時期に日本で上映されていた外国映画のタイトルをそのまま使ったいわゆるノベライズ本として出版されたものだった。この時代の映画はサイレント(無声)であり、活動弁士が語るとか、時々字幕の映像が挿入されていた。ノベライズとしては映画のスクリプト(台本)を訳しながら叙述して行ったと思われる。外国の地名や人名のカタカナ表記がコロコロと変動するのも煩わしかった。
ちょうど第一次世界大戦の最中であり、物語にある欧州の好戦的な小国もドイツを想定したものと思われる。レドブリド国のフィンリッヒ大王は、聯合ヲリエント諸州に対し宣戦布告をする。臣下のフレジナンド伯爵は新発明の潜航艇を完成させており、平民の娘との結婚を勅許する代わりに、艇を軍役に就かせることを誓約する。

これは第一次世界大戦におけるドイツの潜水艦(Uボート)作戦として、軍艦だけでなく中立国の商船を含む連合国のすべての船舶を無警告で攻撃・撃沈する「無制限潜水艦作戦」を行ったことに合致する。
フレジナンド伯爵はその非人道的な行為を悔やみ、命令に反抗して自分の潜航艇を自爆させる。奇跡的に救助された伯爵は投獄され、処刑される。話の展開が映画の進行のように簡略化され、まさに現代の寓話を読む感覚があった。これが百年以上前の出来事であり、その小説化であったのだが、戦勝の報に狂喜する国民の姿は不変であることに気づかされる。
愚鈍な国家元首が選出されれば、歴史の教訓などは「画に描いた餅」のように無視され、こうした戦争の悲劇はいつの世になっても繰り返されるという現実には暗澹とする。☆☆
国会図書館デジタル・コレクション所載。
https://dl.ndl.go.jp/pid/915632/1/1
表紙絵および口絵の作者は不詳。
《当シビイリゼーションは日活会社が巨万の財を吝まず、エッチ、インス会社より購入し、日本にては帝国劇場に公開し、其名声を発揮した雄大無比の世界唯一と称せられた程の軍事劇である。到底禿筆のよく崇高雄大なる映画を文章の上に現し難きを以て材を求むる処ありて本編を稿したるなれば、真にシヴィリゼーションの雄大を知らんとせば活動写真のシヴイリゼーションに就いて高覧を玉へ。》(付記)

「私は、此の号外をどう考へても信じられぬ、何故かと言ふに、如何に国王が武勇に焦(はや)り専制(かって)に開戦をしやふと思っても、それがために設けられた、国会だ、議員達が、我々人民に塗炭の苦しみを与へる様な、開戦論に加担をする様な事は断じてない。」(青天の霹靂)
《国民の少数の或る部分にては、アルカデヤ号の無警告撃沈を人道の敵、悪魔の所業として、公然の攻撃、批難こそせざれども、国王を罵り、伯爵を卑しめたれど、戦勝に酔ひたる大部分大多数の国民は、国王を勇敢果断の君主と讃へ、伯爵の大発明を激賞するのであった。》(名誉と失恋)
「我は国王の水兵にあらず、神兵なり、陛下の命を肯と肯(き)かざるは我の自由なり、我は一旦は誤って国王の非人道的の命令を遵奉するべく誓ひ、自ら悪魔の権化となるべく甘諾したれど、後に至って悔悟なして神に我非行の御詫びをすませ、神の御心に従ひ、一切の事を処理するがため、譬へ国王と雖も、我眼中には、国王の尊厳を知らず、レドフリドと云へる一国家あるを知らず、敵あるを知らず、味方ありとも思はぬ、これ斉しく神の赤子たりと信ずるのである」(地下の石牢)