明治大正埋蔵本読渉記

明治大正期の埋もれた様々な作品を主に国会図書館デジタル・コレクションで読み漁っています。

『俊傑神稲水滸伝』第1巻 岳亭丘山

俊傑神稲水滸伝:岳亭丘山

1893年(明26)扶桑堂刊。

1903年(明36)博文館、続帝国文庫、第44巻(挿画なし)

「俊傑神稲水滸伝」(しゅんけつ・しんとう・すいこでん)は江戸期から明治中期まで書き続けられた稗史小説の一つ。作者の岳亭丘山(がくてい・きゅうざん)は北斎の門人の浮世絵師であると同時に戯作者として多くの作品を書いていた。多様な筆号を有し、Wikiでは岳亭春信として紹介されている。

俊傑神稲水滸伝:岳亭丘山

 この小説は文学史上一二を争う大長編として知られていた。江戸期の和綴本で150冊を数え、明治中期に扶桑堂から活字本として合冊で全15巻で刊行された。実は丘山は最初の2巻20冊までで、その後は知足館松旭(ちそくかん・しょうきょく)通称友鳴吉兵衛によって書き継がれた。(下掲の大尾の序を参照)

俊傑神稲水滸伝:岳亭丘山

 タイトルに「水滸伝」が付いているのは、その物語の骨格を借用して、日本の室町中期の鎌倉から関東、東北南部に置き換えて、そこでの武家勢力の抗争を描き、特に政権権力に対抗して盗賊や無法者たちが山洞に立てこもり、正規軍の攻撃を手こずらせるという設定に作り上げている点にある。15世紀の応永年間は、東日本においては、歴史的に鎌倉公方の第4代足利持氏と管領の上杉氏憲の時代であり、これらの実在の人物に対し、地方の武家として不遇の処置を受けた稲葉鬼門と神洞信行の二人を中心に多くの武者たちが集結、反目、凶行するという物語になる。

 

俊傑神稲水滸伝:岳亭丘山、歌川芳春(朝香楼)・画

 この室町時代の歴史に関しては、日本史の他の時代と比較して、最も馴染みの薄い時代だと言えよう。読書にあたっては、いかに活字本でルビ付きと言えども、文語体で句読点がなく、ページ面(画像参照)のように隅々までびっしりと文字が羅列するのは厳しかった。その苦しさを緩和してくれたのが挿絵である。特に構図の大きい、多人数の動静を描き込んだ画面に魅せられることが多かった。

俊傑神稲水滸伝:岳亭丘山(ページ面例)

 しばしば文学の固定概念として、挿絵入りの読本は低俗である、戯作者の主張は勧善懲悪思想に支配されている、などど卑下されてきたのだが、もし馬琴や西鶴が評価されるのであれば、その他の多くの作家たちにも目を向けてしかるべきではないかと感じるようになった。この長編も勧善懲悪よりはむしろ悪漢小説であり、善人も悪人も視点を変えれば立場が二転三転するという点も興味深かった。また残忍な戦闘や処刑の場面も多く、戦乱の時代にはこうした事象も常態化して見られたのではと考えられた。今のところは気力の面で、この大作を読み続けるのは自信がないので、今回は第1巻(10冊)止まりとした。☆☆☆

俊傑神稲水滸伝:岳亭丘山

国会図書館デジタル・コレクション所載。

https://dl.ndl.go.jp/pid/878582

https://dl.ndl.go.jp/pid/1882618/1/3

挿絵は岳亭丘山に基づく木版画と思われる。

 

俊傑神稲水滸伝:岳亭丘山

《古人嘗て熱血を濺(そそ)ぎ、幾多の歳時を費して著作せしもの即ち是なり、道人常に好んで古人の稗史小説を読むに、文章軽妙意義深遠彼の一夜漬の代物とは日を同じふして語るべからず、就中故人岳亭定岡翁の編著に係る、俊傑神稲水滸伝の如きは。傑中の傑と謂(いふ)べし(…)此書通じて三十編、巻を分つ百五十冊実に近代の大著作たり、而して此大著作大傑作の塵埃中に埋れんを憂ひ、書肆扶桑堂主人(…)遂次これが刊行に着手せしは(…)》(第15巻大尾の序)

 

俊傑神稲水滸伝:岳亭丘山、安達吟光・口絵

《斯くて日ならず岩鷲山に到り見れば思ふに増る高山にて巌壁峨々として苔滑かに樹木森々として芒草路を隠す漸々(やうやう)に九折なる径(こみち)をもとめ藤を引蔦に取りつき辛うじて登り行ば煙波(えんぱ)程遠く鳥一聲と言弁に風(うた)ひし俤(おもかげ)思ひ出られて寂寞たり》(巻の一)

 

《古人嘗(かつ)て云(いへ)る事あり罪の疑はしきは軽くせよ賞の疑はしきは重くせよと又漢書にも見し事あり君の明(あきら)かなる所以は兼て諫言を聴(きけ)ばなり君の闇(くら)き所以は偏(ひとへ)に讒言を聴(きけ)ばなりと寔(まこと)に然(しか)なり》(巻の九)

 

 

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