明治大正埋蔵本読渉記

明治大正期の埋もれた様々な作品を主に国会図書館デジタル・コレクションで読み漁っています。

『夜の門』 川口松太郎

夜の門:川口松太郎

1949年(昭24)日比谷出版社刊。

 ヒロインの章子はエミー野口という芸名で上海のキャバレーの楽団でヴァイオリン奏者兼歌手として働いていた。終戦となって、在留していた日本人はすべて喪失感に囚われ、虚無的に生きるしかなかった。男女の情熱的な出会いも刹那的だった。帰国した章子はふと京都で下車すると、昔の楽士仲間と出会い、そこのダンスホールの楽団に雇われることになる。

 彼女は戦後の生活の困窮で苦しむ人々の姿を目にしながらも、自分は享楽世界に安易に浸り込むことに割り切れなさを感じる。それとは裏腹にエミー野口の声価は高まり、映画への出演までも声がかかる。その監督として上海での一夜を過ごした男との再会、ダンスホールの経営者との奇妙な交友、死んだ妻の面影を妹に追い求める義兄の苦悩など。戦災を免れた京都の風物を交えながらの物語の展開には生気のこもった味わいがあった。特にヒロインのやや蓮っ葉にも見える強がりの性格描写も巧みで、しばしば決めつけられる川口松太郎作品の通俗性こそ小説の望まれるべき態様ではないかと思い直す気持になった。☆☆☆☆

 

国会図書館デジタル・コレクション所載。個人送信サービス利用。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1705982/1/238

 

夜の門:大映映画(1948) 日高澄子

「ギリギリ結着のどんづまりへ行きやァ人間だって虫けらだって違はなくなってしまふ。今まで胡魔化しがきいたのは、人間の智恵が虫けらよりまさってゐたから、少しは贅沢なくらしをし、生意気な理屈をこねくりまはしたんだが、戦争には敗ける、食物はなくなる、となりゃアどうする。一思ひに死ぬったって、自分が死ぬ段になりゃア、さう易々とは死ねるもんぢゃないさ。」(一)

 

「君は思ったよりずっと面白いよ。複雑さがあると云ふ事だね、凸凹してゐると云っても好い。多くの女は平べったくて、明暗がなく、薄っぺらな感じしかしない。さう云ふ若い綺麗な女を見ても僕は興味が湧かないんだよ。どうも日本の女はみんな平べったく、通り一ぺんに出来てゐる。その点、君の顔や姿は面白い。外の女優にないものを持ってゐる」(十九)

 

《戦ひに破れた上海の夜、命の終りを思はせる虚しさの真只中に立った実感が、何の飾り気もなく、まざまざと浮び、記憶の底に残る音律は無限の哀感をこめ、心をゆすぶって押し出すやうな涙が忽ち頬を濡らしてしまふのであった。》(二十)


「こんな所でこんな会をやってゐるのはあんまり好い気持がしない、米の配給がなくて餓死者が出来るかも知れないと云って居る中で・・・」

「止せ止せ、それが観念の遊戯と云ふんだよ。インテリの弱点だ。餓死者が出来るかも知れない中でこんな事をして居るのはいけない。さう感じながらして居る――この錯覚の方がどんなに悪いか知れない。悪いと思ひながら止せないところに悲劇がある。止せないくらゐなら黙って居るんだ。もっとふてぶてしくなるんだ。」(二十四)


《誰も彼も目先のカンで生きてゐるやうな心持がする。役に立たぬ事ばかり考へる人間同志の寄り合ひなのだ。考へ方に深浅の度があるだけで、カンぐりの逃げ道を探す人種に違ひはなかった。所詮自分のものにはなるまいとあきらめてかかり、あきらめてなお一応の押しだけは試みる。相手がハネ返れば首をちゞめる亀の子のくせに、鼻づらだけは強がって居る。芯のもろさはお話にならぬ弱虫なのだ。》(三十七)

 

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