明治大正埋蔵本読渉記

明治大正期の埋もれた様々な作品を主に国会図書館デジタル・コレクションで読み漁っています。

『悪魔を買った令嬢』 川口松太郎

 

悪魔を買った令嬢:川口松太郎

1949年(昭24)日比谷出版社刊。

1949年(昭24)1月~12月 雑誌「スタイル」連載。

 

 川口松太郎の現代小説の一作。彼は通俗小説の大家と呼ばれたが、小説というものが「何かを物語るもの」という本質を有するかぎり、快筆をふるって読ませる小説を量産した事績を埋没させるべきではないと思う。少なくともその時代の作品遺産として読み返されるべきだろう。

 終戦直後の東京の風景・風俗を描き出している。清純派女優として人気の高い関暁子は、両親をはじめ三人の姉妹と幼い弟までの大所帯の生計を担いながら生真面目そのものの模範的な生き方をしている。奔放な性格の妹の家出に触発されて、その型にはまった生き方を考え直し、自由意志で行動しようと思い立つ。また特異なのは、男女関係における純潔思想もしくは貞操観念が女性に対してのみ大きな枷となっている風潮に反発し、その性体験の過誤は人間として誰にでも起きることだと思うに至る心境が描かれた点にある。それには人気美人女優という地位さえも投げ棄てる覚悟に迫られる。必ずしもハッピーエンドにならない結末も印象深い。☆☆☆

 

国会図書館デジタル・コレクション所載。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1705982/1/5

 

「私はもともと形の崩れた女で、崩れて居る者の方に魅力を感じやすいんです。さう云ふ女に生れついてしまったんですね。ある意味では私も出来損ひだわ。姉さんには理解して貰へないと諦めてゐるけれど、姉さんだって何時かは私の気持の解る時が来るわ。」(悪魔を買った令嬢)

 

《取りすました嘘をはぎ、裸になった自分を懸け値なく、値踏みさせたい好奇心であった。名を云ひさへすれば、誰もが一応は尊敬し、別格の扱ひをして呉れるが、その別扱ひが迷惑で、割引のない裸身に、尊敬や好意を持たぬただの女に扱はれたい欲望が、絶えず底に流れて居る。逢ったばかりの男について、何処へ連れ込まれるかも知れぬ危ぶなさを面白がって居るのも、その意識の一つだった。》

 

《汚点と云へばそれまでだが人生の過程に汚れのなからう筈はない。人間の失敗は他人に累を及ぼす時に限られて居る。迷惑をかけぬ過失は失敗にもならぬ。(…)自分はまだ誰にも禍ひを残して居ない。奥深くしまひ込んで置けば何時かは消えてしまふ油のやうなものだ。それが暁子の哲学であった。》(十九)



 

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