
1893年(明26)駸々堂刊。
松月堂呑玉(しょうげつどう・どんぎょく)については、明治期の上方の講釈師の一人であり、口演速記本にその名を留めている他、あまり情報は多くない。演目『肥後駒下駄』(ひごのこまげた)は別名「桃山の仇討」とも称される江戸時代の敵討の実録物で、古くから歌舞伎や講談で演じられていた。明治期の講談速記本でも流派の異なる講談師のものが何点も出版されている。
播州脇坂藩の藩士である父親が主君の不興を買って閉門を命じられてのを機に、息子の善九郎は浪人となって、武者修行の旅に出る。どこの藩でも仕官の道は厳しく、肥後隈本藩の指南役八坂源次兵衛の屋敷へ駒平という名で仲間奉公をすることになる。しかし武術のたしなみがあるのを見破られ、怪しまれて屋敷を追い出されたので、隣家の松山秀之進に雇われ、息子の秀太郎に密かに剣術を教えることになる。その間にも隣家同士のいざこざの中で、善九郎が駒下駄で眉間を殴られるという屈辱を受ける。
松山は藩の目付役で、八坂とその友人たちの不行跡を暴き、所払いと処したのを、彼らは恨みに思い、出国間際に松山を闇討ちにして逃げた。息子の秀太郎は叔父二人と共に主君から仇討の許しを得て、探索の旅に出る。善九郎も駒下駄の屈辱を晴らすために、秀太郎を助けようと後を追う。・・・
口演の中で語られる善九郎の行動を見ると、性格は唐竹を割ったような一本気の男で、せっかちで、融通の効かなさが見えて面白い。彼の世話を申し出る気っぷのいい商人たちが各地で代わる代わる出てくるのも日本人的な心情なのかもしれないと思われた。☆☆

国会図書館デジタル・コレクション所載。
https://dl.ndl.go.jp/pid/890789
口絵は中川蘆月と思われる。
「世に捨てられた浪人の秀太郎を夫程までに思召下さるか、不義の様には似たれども親御の御承知とあれば如何にも妻に貰ひませう」、「アゝお嬉しうございます秀太朗さん必ず変って下さいますナ……」と互ひに手に……此處が少し難事(むつかし)い所で委しく申上げますれば猥褻に渉ります、ト云ッて申上げませんと情が移りません。そこで諸君の御推察を願って、抜かぬ太刀の功名と云ふ語(こと)がございますから寧ろ演らん方が宜しいから畢竟(つまり)こゝで妹背の語らひが出来たと思召しあれ、(第九席)


















