明治大正埋蔵本読渉記

明治大正期の埋もれた様々な作品を主に国会図書館デジタル・コレクションで読み漁っています。

『広島悲歌』 細田民樹

広島悲歌:細田民樹

1949年(昭24)世界社刊。

1949年(昭24)10月、雑誌「富士」掲載:『美しき大地』(中間部)

1949年(昭24)11月、雑誌「富士」掲載:『山河の歌声』(終末部)

 

被爆直後の広島とそこに暮らす人々の惨状に直接触れながら、その核兵器使用の衝撃と平和への思いを強く訴えた小説。単なる体験記の形態でなく、三人称の小説とすることで、それらの人々の体裁の裏側までもが客観化され、極限状態に追い込まれた人間の姿が全身像として見えるような印象になる。作中でも、瀕死の状態に陥った女学生を担架で運ぶ途中に、突然その娘が大声で軍歌を歌い始め、歌い終わると同時に息を引き取ったというくだりには、胸をえぐられるような衝撃を受けた。こうした貴重な作品は、決して絶やすことなく、長く読み継がれていくべきだと思う。☆☆☆☆☆

 

広島悲歌:細田民樹2

国会図書館デジタル・コレクション所載。個人送信サービス利用。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1706206

https://dl.ndl.go.jp/pid/3561672/1/9

https://dl.ndl.go.jp/pid/3561673/1/104

雑誌掲載時の挿絵は三芳悌吉、単行本の装幀は近藤浩一路



《しかし「ノー・モア・ヒロシマズ」は、ひとりわれわれ日本人の願いばかりでなく、現に世界に生存する凡ての人々の願いでなくて、何であろうか。(…)今日の世界には、原子爆弾よりも、より重大な課題というものは、絶対にないと言っても言いすぎではあるまい。(…)それを人間の世界に投下し、或いは、投下してはならぬことを決定するものは、もはや断然自然科学の領域でははく、ひたすらに人間の意志のみである。》(はしがき)

 

広島悲歌:細田民樹3

「暫くして顔をあげ、広島の方の空を見ると、淵崎の山の向うに、ちょうど大きな風船のような真黒い煙が、むくむくと渦巻いてる。そうしてその渦巻から、遥かに突きぬけて出たように、高い空に真白い雲とも煙ともつかないものが、ちょうどカサをひらいた松茸そっくりの形で、ひろがっていたんですよ。」(父と子と女と…)



《もはや道行く人々には、泣くものもわめくものもなかった。大きな声で話しながら歩く人もなかった。広島全体が白昼の一大廃墟であり、見渡すかぎりひっそりと静まりかえった一ツの大きな墓場だった。そうして、とことどころに焼けただれた白い残骸をさらしているコンクリートのビルディングが、さながらこの一大墓地の、荒寥としたあじけない墓標だった。》(天災地変に非ず)

 

《国家だの民族だのという美名の魔薬によって、支配者権力者の利害のために国民をたばかり、国民としては、何の怨恨もない人間を、憎悪と殺しあいに狩り立てる。これが、たいがいの戦争の発生過程ではないか。現にこの広島の、眼もあてられぬ惨状は、日本の支配者共の、帝国主義的侵略の、てきめんなむくいではないのか。》

 

広島悲歌:細田民樹4

《あの日以来たしかに自分の心も鈍感になってしまった。家が焼けても、親兄弟が亡くなっても、それによって別段、涙の溢れるほどの打撃をうけないというのは、いったいどうしたことだろう。同じ日同じ時に数万、数十万の人々が、同じ目にあったために、自分一個の悲しみなんか、それら数十万の分母で割られて、それで稀薄になってしまったのだろうか。とにかく、道を歩く人の顔も、わが家の焼跡に立っている人々の表情も、いちように、あの日以来、無限の遠距離へそれぞれ魂まで吹き飛ばされた人みたいに、ぽかんと無表情に見えるのであった。》(あゝ八月十五日!)



『なにしろ、広島の原子砂漠には、むこう七十五年間、人間はおろか、一本一草も育たないなんて、いわれてるほどですからね』(最後の思い出)



*参考サイト:ひろしま文化大百科 広島悲歌(ひろしまひか)

www.hiroshima-bunka.jp



 

 

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