明治大正埋蔵本読渉記

明治大正期の埋もれた様々な作品を主に国会図書館デジタル・コレクションで読み漁っています。

『六つの悲劇』 山岡荘八

六つの悲劇:山岡荘八

1949年(昭24)1月~12月、雑誌「富士」連載。

1955年(昭30)東方社刊。

 

山岡荘八(1907~1978) は大著「徳川家康」「織田信長」をはじめとする歴史小説家として知られているが、人物伝や現代小説でも非常に多くの作品を残した。

この作品は「六つ」という数字にこだわらず、敗戦とその後の日本の人々の心身を襲った数多くの悲劇について語っている。一番は価値観の崩壊と再構築の時代だったということだろう。しかもそれが前向きな方向性を示しているのは共感できる。

物語のプロット構成が通俗的な展開で安易に思える反面、それぞれの人物が歎き、悲しみ、考える心情を深く掘り下げているのに驚く。思わず傍線を引いたり、抜書きしたりすることが多かった。そういう意味では彼は単なる歴史小説家というよりも文豪という位置づけで再評価されてもいいように思える。☆☆☆☆

 

国会図書館デジタル・コレクション所載。個人送信サービス利用。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1666666

https://dl.ndl.go.jp/pid/3561666/1/33

雑誌連載の挿絵は富永謙太郎。

 

六つの悲劇:山岡荘八2

『ヤミ屋から街娼、強盗、掏摸の類までこの情熱家たちの支配下にあるのを見たとき、おれ自身の情熱だけは完全に消えてしまった。といふよりおれは愚かな情熱をこゝろの底から憎みだしたのだ。分るかね? 今の世界の第一の悲劇は、情熱が正義とは全く別に存在する・・・といふより、正義のありかを見失った愚かな情熱が盲滅法に暴れ廻ってゐるところにあると思ふんだ・・・』(第一の悲劇)

 

《この低俗愚昧な国民はまだ命令に依って動かす以外に道のない宿命的な悲劇を背負った国民なのではあるまいかと思ひ、その自からのファッショ性に愕然と反省した事さへあった。》(黄昏の来訪者)

 

六つの悲劇:山岡荘八3

『愛ですよ。すべては愛ですよ。歪んだ人間を救ふカギは愛情以外にありません。そこで私が、あなたにお訊ねしたいのは、鬼塚一郎といふ一人の男を救ってみせるといふ積極的な強い愛情を、あなたがお持ちかどうかといふことなんだ。』(愛と詭計)

 

《最初処女性を尊ぶのは男の身勝手からだと解したのも誤りだったと思ってゐる。男の無責任と享楽癖はけっして珠玉をきびしく守らうとする女性などを喜んでゐはしない。却って、無価値なものだと錯覚させて、易々と奪ひとらうとして狙って来るところに、女性解放に便乗した狡猾な蕩児の伏兵は潜んでゐる。》(処女への郷愁)

 

《人間とはいったい神と同じ形の動物なのだらうか? それとも動物の中で唯一つ神に近づける存在なのだらうか・・・?》(悲しき街)

 

六つの悲劇:山岡荘八4

《空を仰ぐと星も出てゐる。これはまた、のぼせ上った人間共を冷やかに見おろしてゐる。理性々々と云ひながらいまだに宇宙の片鱗すらつかめない地球の上の小さな生物を嘲笑ってゐるかに見える。》(冷たい戦ひ)



《むろんこれは戦ひに敗れた日本だけの問題ではないらしい。人類と名のつくすべては悲劇の主人公で、地上のすべては悲劇の海なのだ。とすれば、その海からのがれて生きる道は全くない。》(朝の暗示)



『おれはやっぱり狼狽してゐたのさ。敗戦といふ予期しなかった出来事が狼狽させたのさ。自分がいちばん高いと思ってゐた戦場での犠牲の価値が、負けたといふことで見る間に崩れ去ったとき、おれは一切の犠牲が無価値になったやうに錯覚したらしい。・・・が考へてみると人間と人間の社会はやっぱり善意の了解と、美しい犠牲とに支へられてゐるのがわかった。』(善か悪か)

 

 

 

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