1948年(昭23)2月~12月 雑誌「りべらる」連載。
1948年(昭23)太虚堂書房刊。
終戦直後の混乱期に大都市の繁華街などでは生活苦から売春する多くの女性たちが現れた。そうした女性たちの更生と自立を目的とした寮施設を運営する青年長見は、ある夜警察の一斉摘発に同行して、街角で客待ちをする一人の娘と出会う。そこには極度の困窮に追い込まれた母娘の生活があった。男女の関係は、精神的にも肉体的にも相手を求めずして生きて行くのは困難であり、それが特に女性の場合にも多様で複雑な心理が働くことをこの作品の中ではあからさまに描き出している。☆☆☆
国会図書館デジタル・コレクション所載。個人送信サービス利用。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12851560/1/6
https://dl.ndl.go.jp/pid/1704476
挿絵は岩田専太郎。
《敗戦後の日本人の無秩序と混乱とが、彼には焦燥のかぎりであった。特に若い女たちの無知と厚顔無恥には、ゐたたまれないものを覚えた。彼女たちを泥沼のなかから救ふのは、魂の救済以外にはない。情欲を抑へつけて、精神的なものを昂揚させることだ。さう彼は考へた。》(一:童貞)
《長見は女心の不思議さに、返事も出来なかった。自分の身の潔白を主張するのならわかるが、その反対に、自分が男と無関係であることを恥と考へる考へ方は、どういふのだらうか。彼には理解のそとであった。女の情熱といふものは、そこまであらゆる理屈を超越して、列しく、奥深いものだらう。》(十:あきらめ)
《道徳とは、果してなんだらうか。二人のあひだに、いま行はれてゐる行為は、世間の道徳観念からは、あきらかにさげすまれるべき行為にはちがひない。けれども、二人がかうすることで、一体、誰に迷惑がかかるといふのだらう「良俗」のささへとなってゐる道徳的常識が、ぐらつくとでもいふのか。そんな眼に見えないものよりも、かうすることで、一人の女がたしかに救はれるといふことの方が、重大ではなからうか。》(十:あきらめ)
《人間は社会のなかの一員であるかぎり、社会の秩序を護らねばならないにしても、自分を犠牲にしてまで漠然とした「良識」に、自分自身を縛りつけられてゐる必要があるだらうか。本当の社会の秩序とは、一人々々が完全に生きることによって、形づくられるものではないだらうか。》(十:あきらめ)