1897年(明30)3月~8月 雑誌「人情世界」連載。松林右圓(しょうりん・うえん、1854-1919)は泥棒伯圓と称された二代目松林伯圓の弟子で、1901年に伯圓を襲名して三代目となった。この講演速記物の連載時はその直前の時期にあたる。右圓の速記本は極めて少ない。
この講談も新作物で、明治中期の東京での首無し殺人事件や誘拐監禁事件に端を発し、日清戦争の勃発による朝鮮への出征に至るまで様々な事象に振り回される人物たちの姿を描いている。やや風呂敷を広げ過ぎてまとまらない感じがするが、語り口は丁寧である。☆
国会図書館デジタル・コレクション所載。個人送信サービス利用。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1601386/1/6
口絵および挿絵は楊斎延弌または延一(ようさい・のぶかず)
《人間に限らず凡(およ)そ生ある動物は何でも一番恐れ嫌がる事は死ぬるのですが如何(どう)せ生きて居る者は一度は死なゝければならんのですから諦め如(やう)一つですが、偖(さ)て此の諦めが凡々(なみなみ)の人にはつかない。七十八十になって一日も早く如来様のお側へ行きたい杯(など)と口へ出す老人(としより)でもイザ殺して仕舞ふと白刃(やいば)を翳(かざ)して跳び出る者があれば屹度(きっと)逃げるに違ひない。命は誰しも惜しいのが当然だ、併し人は死す可き時に死せざれば死するに勝る恥ありとは昔から言伝へた諺でございますから、胆力の定(すわっ)た豪傑は死すべき時には立派な最期を遂げますので後世までも名が残ります。》(廿二席)
※松林右圓に関しては師匠の泥棒伯圓の業績に比べれば、その評判に関する情報が極めて少ない。同時代の講釈師でありジャーナリストであった伊藤痴遊の著作で言及している個所を見つけたので以下に転載する。
《伯圓の背後には、前にも云った通り、報知新聞社の連中が控えて居て、よく之れを指導したから、新聞読みとして成功したが、門下には、其名を襲ぐほどのものがなかった。伯知、右圓、伯鶴の三人は居たが、いづれも未熟の輩であった。(…)右圓の講談は、どう聞いて見ても、巧くはなかったが、多数の聴客(ききて)を呼ぶ点に於て、此の人の上に出るものはなかった。(…)どうして、右圓が那(あ)のやうに長い間、新聞読みとして、永く人気を引付けたか。といふに、それは彼の技𠈓が、頗(すこぶ)る拙かった為めである。
講談を、一つの芸術として、しづかに聞いてゆく時、右圓の講談の何処が、巧いのか少しも判らなかった。足の長い話振りで、一つ所を、いつ迄経っても離れず、行きつ戻りつして居る。仮名違ひや、主客顛倒や、左右自他のメチャメチャな事や、それ等の穴を取ったら、一席の講談中、どれほどあるか判らないほどであった。
右圓を贔屓にするものに云はせると『話が親切で、丁寧に語ってくれるから、よく解る』との事であった。
乍併(しかしながら)、彼れにも一つの長所はあった。話に山をかけて、いかにも面白さうにして、此処一と息といふ所で、畳み込んで、ぷっつり切場をつけることは、またいふにいはれぬ妙味があった。》
(伊藤痴游全集第15巻:『国会開設政党秘話』より「芸人鑑札受の魂胆」)
松林右圓の肖像。講談雑誌「都にしき」掲載。
1896年(明29)NDL-DC