1893年(明26)春陽堂刊。探偵小説第9集。これも尾崎紅葉の硯友社に版元の春陽堂が持ち込んだ企画、つまり第一線の文筆家に匿名で探偵小説を書いてもらうシリーズの一つだった。作者哀狂坊の名前もこれ1冊だけで、本当は誰なのかは不明のままとなった。文体は旧来の堅苦しい漢文調だが、語り口が引き締まり、格調が高い。語り手本人は探偵(刑事)で、ある医者がそれほど裕福ではないのに、芸者遊びをはじめ料亭への出入りなど派手な生活を送り、借金に追われているという話から、身辺調査を始める。病人を装ってその診療所に行くが、そこで助手をしている妙齢の女性に恋をしてしまう。表面上優雅な生活を送るその男の陰の顔が次第に見えてくるにつれて、刑事は恋か捜査かの心の葛藤に悩む。その心情を延々と述べるくだりは純文学の香りも感じられる。☆☆
国会図書館デジタル・コレクション所載。挿絵は作者不明。
※作者の人生観の吐露
《 見よ、予等が生るゝ時に起るは歓喜(よろこび)の涙なり。見よ、花咲ては散り、実のりては落つ、幾万の歳を重ぬるも遂には風に折れ斧に倒さるゝ事、樹木の一生なり。更に聞け、書を読み、算を学び、汗を流し、心を苦しめて、収め得たる財宝は幾許(いくばく)の長き間わが身を慰め得る事ぞ。甚だしきは労苦の酬(むく)ひいまだ来らざるに、先(まづ)その命(めい)を失ふ者これ世の中の多数を占(しむ)るに非ずや。然らば此世は歓喜(よろこび)に始まり悲哀(かなしみ)に終るものにして、予等はたゞ死する者に他ならず。》(第1章)
《 実に酒食は人類の真面目を見(あら)はす最良の鏡なり。実に人類は酒と色に楽しみ又これが為に苦しむ。人は酒食の為に生存する者にして、酒食は即(すなはち)人類の生命を司る者なり。》(第1章)