明治大正埋蔵本読渉記

明治大正期の埋もれた様々な作品を主に国会図書館デジタル・コレクションで読み漁っています。

『重右衛門の最後』 田山花袋

 1908年(明41)如山堂刊。『村の人』という表題の短編集に所収。他に『悲劇?』と『村の話』との3篇から成るが、文学史上も知名度が高い「重右衛門」を初めて読もうと思った。予想通り難解だった。従ってこの1作だけで読了とした。

 

 名前からして鷗外のような歴史物かと思っていたが、花袋が親交のあった長野県の山村(現飯縄町)の友人たちの郷里を訪ねたときの体験談がもとになっている。前置きが長く、なかなか「重右衛門」が登場しないのも、文豪の作品とはこういう語り口なのだという敷居の高さを感じさせた。

 村の豪農の家に生れた重右衛門はまともに働こうとせずに、酒色に身を持ち崩し、家作や田畑を売り払い、村人に借金や物乞いをするまで常態化した。挙句の果てに村民の家屋敷に次々と放火するに至る。花袋の語り手もその現場に出くわすが、重右衛門は鎮火した家で人々にふるまい酒が出される場に勝手に加わって、したたかに酔った末に水田に落ちて死亡する。それが村人の怨嗟による私刑だったかどうかは不明とされた。花袋は重右衛門の生き方が自然児であったと擁護し、その死を悼んでいるが、どうしても違和感が残る。彼にとっては自然のままに生きることが至上であって、人間社会の規律や習慣までも不自然なものとして捉えようとしている。しかし動物社会でさえも、群れで暮らす猿や狼には何らかの秩序を保つ習性があるのだから、彼の言わんとする「自然」の概念はどうしても理解できなかった。☆

 

国会図書館デジタル・コレクション所載。口絵・挿絵は無し。

dl.ndl.go.jp



『人間は完全に自然を発展すれば、必ずその最後は悲劇に終る。即ち自然その者は到底現世の義理人情に触着せずには終らぬ。さすれば自然その者は遂にこの世に於て不自然と化したのか』と自分は独語した。(十一)

 

『けれど人間は浅薄なる智と、薄弱なる意とを以て、如何なるところにまで自然を改良し得たりとするか。』

『神あり、理想あり、然れどもこれ皆自然よりも小なり。主義あり、空想あり、然れども皆自然より大ならず。』(十一)

 

 

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