
1956年(昭31)東方社刊。
1967年(昭42)2月、雑誌「小説倶楽部」に「羽子板娘」再掲載。
1968年(昭43)2月、雑誌「小説倶楽部」に「雪おんな」再掲載。
1960年(昭35)12月、雑誌「読切俱楽部」に「花嫁の死」再掲載。
高木彬光は数多くの名探偵を作り出している。現代物ではこれまで読んだ神津恭介や大前田英策などだが、時代捕物としてはこの千両文七ということになる。千両という渾名がついたのは、当時人気のあった千両役者、尾上菊五郎に顔が似ているということで、普通の目明し同様、宵越しの金は持たなかった。手下の合点勘八との息の合ったコンビでソツなく次々と事件を解決していくが、作者のトリックの作りがやや強引なところも感じた。

単行本としては2巻になるほど作者は文七が気に入っていたように思われる。刊行後10年ほど経ってから、単発の短篇として「小説倶楽部」や「読切倶楽部」に少なくとも5篇は再掲載された。その度ごとに挿絵画家も変わっていて、拾い読みしながら味わいの違いも楽しめた。
この本には捕物帳6篇の他に「私版天保六花選」が併収されている。講談で有名な天保年間に実在した悪人たち、つまり河内山宗俊や直侍(なおざむらい)こと片岡直次郎などの行状を書いたものだが、その中にも文七が脇役風に登場する。彼らを追いつめる捕物名人としての動きが、間接的に描かれる方がその凄腕ぶりが際立って見えるのも不思議だった。☆☆

国会図書館デジタル・コレクション所載。個人送信サービス利用。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1645185/1/3
https://dl.ndl.go.jp/pid/1790580/1/90
https://dl.ndl.go.jp/pid/1790596/1/70
https://dl.ndl.go.jp/pid/1723094/1/109
雑誌掲載時の挿絵は、木俣清史、中一弥、加藤敏郎。

「馬鹿野郎! 相手は狐でもむじなでもねえ。あれはたしかに女の悲鳴、これをだまって見のがしちゃあ、せっかくここまで売り込んだ、千両文七の男がすたる。来いッ」(阿蘭陀かるた)
《そういえば。とうじ江戸で名題の千両役者、三代目音羽屋、尾上菊五郎に生きうつしといわれた、水際だった横顔にも、ちっとやつれが浮んでいた。朱房の十手をにぎっては、江戸きっての捕物名人とうたわれた文七も、病には勝てないものとみえるのだった。》(白首大尽)