
1935年(昭10)改造社刊。
1950年(昭25)非凡閣刊、定本菊池寛長編小説選集第3巻所収。
貧しい借家暮らしの三人姉妹の真ん中、しっかり者の次女新子を中心に、演劇に熱中する長女の圭子と自由奔放な三女美和子の恋愛模様を描く長編。三人三様の性格の書き分けと、姉妹間のやり取りの感情の変化を巧みに描いていた。新子が家庭教師として入り込んだ裕福な前川家の空疎な夫婦関係から、前川氏は新子への親愛の情を深める。その新子が婚約寸前まで思っていた青年を含め、登場する男たちはすべて中途半端で煮え切らないタイプであり、女性側としても決断する手がかりを得られなかったように思う。高慢な夫人が相手をイビリ倒す言葉には迫力があった。小悪魔的な魅力を秘めた三女美和子のバイタリティには度胸と愛嬌があふれ、物語としても存在感があった。☆☆☆☆

国会図書館デジタル・コレクション所載。個人送信サービス利用。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1175665/1/3
https://dl.ndl.go.jp/pid/1358165/1/4
挿絵は小林秀恒。

*小林秀恒による三人姉妹のプロフィールはよく描けている。やはり中央の新子が一番美しい。
《東京下町の小学生が唄ひはやす(真中まぐそ、はさんですてろ)と云ふのが、南條家の新子の場合なのである。姉は年上なるがゆゑに威張り、妹は年下なるが故に甘やかされる。とは云へ、美澤に対しては、よい気持はしなかった。餘りにも、たやすく見替へられたわれとわが身が憐れまれ、その打撃に無神経になる迄には、相当長い時日がかゝると、覚悟しなければならなかった。》(バー・スワン)

「いゝや、男女が二人して作る生活に、幸福なんて滅多にないのぢゃありませんか。夫婦生活も、楽しいのは最初の中だけで、お互に生地を出しはじめると、月並な文句ですが、墓場ですな。」(主人の心)
《言葉に出して愛をさゝやかれ、言葉に出して愛を求められる場合は、女性の心は、ピンと張り切ってゐて、理性が働き感情が冴えて、容易に肯かないものであるが、凡てが行動で、その時と場合との機みに乗って来られたのでは、丁度先刻の夕立のやうに、身を避ける間もなく、濡れてしまふのではないかしら。》(家庭の嵐)

《清浄に、潔く、心持の上でも、その野心の芽を摘み取ってゐるのであるが、しかし自分があきらめてゐるだけに、新子の周囲も、掃き浄められたものであってほしかった。自分が足を踏み入れない聖域には、他人にも足を踏み入れて貰ひたくなかった。》(搔き乱す者)
《これは、前にもいったやうに、夫婦らしい愛情からの嫉妬といふよりも、冷えた夫婦愛が内攻して起る病的なものであるだけに、性質が悪性で、相手を苛めぬいて、出来るだけ、嫌がらせて満足を得ようといふのである。》(夫人策動)

《長篇小説を書く場合、性格は経で、筋は緯である。(…)しかし一日一日書いて行ってゐると、性格も亦一個の生物となって、作者の考え以外に成長してしまふことがある。そんな場合、よく筋と矛盾を生ずるのである。筋通りにかけば、性格を傷けることになるし、性格に忠実ならんとすれば、予定の筋を運べなくなる。自分のこの小説なども、あまりに性格本位にしたため、最初の主題が充分書けなかった小説である。》(跋文1)
《ある読者には、この結末はあまりに、アッケないと思はれるかも知れない。しかし、人生に何等の結末もないごとく、小説にも結末がない方が、自然なのである。人生が、事件から事件への無際限の連続であるが如く、小説にも亦、幸福なる結末などあり得ないのである。》(跋文2)